展覧会場
netarts.org 2004

     

    ■ "Ping Melody"
    ■ http://wrocenter.pl/projects/ping/index.html
    ■ Pawel Janicki (Poland)

    ■ 選評−トレイス・リデル(要約)

     
    > 遊びと経験という異なった階層を横断してナビゲートするための、概念的な転移の戦略としては、
    > わたしはテレマティックス的な世界を考慮しないように努めている
    > それは、生命や生命に奉仕するものであることから切り離されているのだから
    > わたしを悩ませているのは、
    > そのような、ネットに基礎を置いた、わざとらしい作品なのだ……

     このプロジェクトのコンペに今年寄せられた魅力的な諸作品を見渡した時、最も心動かされたのは、認識プロセスとしてのネットワークの存在が明らかにされたということだ。優秀作で、ネットワークに基づいて自らの位置を知らせる「One Block Radius」、そして今年の次点で、イデオロギー的な「脳のためのお菓子」である「unosunosyunosceros」の双方とも、わたしたちがその中で暮らしている「体制」によって行使される操作や影響力の不可視のパターンを最終的には暴露してしまうものである。「Ping Melody」はその二つの作品が持つ傾向を、ネットワークの中での位置を示すpingを用いた音楽パフォーマンスという形に統合して見せてくれている。

     ネットワークを巨大な特殊効果装置を通して変換することで、パヴェル・ヤーニッキは、このメディアにそれ自身がメッセージであるかのように振る舞わせている。しかしそれは同時に、軍の通信システムとの不可視の対立こそが真に重要な問題なのだと主張するアーティストの努力を損ねてもいるのであるが。この作品は、過去のパフォーマンスのドキュメントを集めたものであるが、その断片的なドキュメントが作品自体を語っていないことがもどかしかった。しかしそれらのドキュメントは、ヤーニッキや他の人たちのために次の段階の方向性を暗示してくれてもいる。例えば民間の、あるいは商用ネットワークにパケットを送り込んだら、pingで生ずるメロディーは違ったものになるかどうかは知っておきたいところだ。テレマティックス的に異なったシステムであるなら、違ったハーモニーや歌詞、和音になるのだろうか? これらの特定の音のネットワークは、その他の極端にテレマティックス的なネットワークと連結しているのか? そうだとしたら、それらの中をナビゲートするのに何が必要とされるのだろう?

     「Ping Melody」は、インターネット・アートの重要な機能の一つが地図作製学であることを暗示している。「One Block Radius」も同様に、わたしたちが暮らすパターンをネットワーク化した記録を破棄させようとする運動への参加である。このプロジェクトもデジタルな心理地図作製学の実践の典型なのだ。「ping Melody」以上に、このプロジェクトにおけるウェブの存在は生き生きと記録されている。つまり、それは単なる完成したパフォーマンスやインスタレーションのキュメントではなく、ある特定の予定されているイベントには依存しない、進行中で発展途上のものなのだ。と言うよりは、それはむしろ、ネットへと向けられたアーティスティックな恋愛関係なのである。それは、「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」の著者が意図したような、日常的な実践のための一つの流儀となるものでもある。わたしはこのプロジェクトこそ、わたしと(審査員の一人である)ジョン・ホプキンズが話し合っていたことを具体化していると信じる。それはつまり、デジタルなメディアとネットワーク化され、それと一体になったアーティスティックな実践こそが、日常生活をイマジネィティヴなものとするということなのであり、そして、この作品はそれにどうしたら参加できるかを示してくれているのだ。見ること、聴くこと、歩くこと、触ること、それらすべてが力に満たされるのは、心理地図作製学的な漂流者のシチュアシオニスト的空間においてである。この「One Block Radius」の内部には、膨大な量の洗練されたデジタル的な意識がある。わたしはこのサイトに何度でも立ち戻るだろう。

     テイラー・ポッツの「52 songs」は、この展覧会で重要な役割を演じている。ネットワークへのコネクティヴィティ、すごく小さいインディー・レーベルという美学、個人的な日誌という要素がすべて解け合って、否=物語的な日々更新されるサウンドblogとなっているのだが、それはつまり、ジョン・ホプキンズが言うところの『人工的産物が備えていない人間的な要素』を合わせ持った個人的習慣の一つの在り方なのである。次点の「unosunosyunosceros」は、「曼陀羅としてのインターネット・アート」のような雰囲気を特色とする。もし、インターネット・アート的なものを理解したいのだったら、この作品などは良いだろう。この作品はわたしに、「イデオロギー的な脳のためのお菓子」を考えさせた。これは、ネットワークによってその位置を示す作品と同時に見ることで、心理地図作製学な統一体という意識を補完するように機能する瞑想的なメディアなのである。日常的な体験における意識をトレーニングすることで、それに祈りの機能を与えてくれるのだ。

    > それはいわゆるリゾームとは違うと思う
    > なぜなら、リゾームは接続ポイントを超え、発生学的な類似を暗示するから
    > それらはすべて、同じ命の力なのだ

    > ネットワークとは、接続可能で、まったく異なる諸システムを相互に変換してくれなければならないし、
    > わたしはそのことが、デジタルメディアが脚光を浴びた理由の一つだと思っている
    > そして、ある程度は今でもそうだ−−−
    > なぜならそれは、コネクティヴィティの強さを神話化し、具体化してくれるものだから……