補遺A. カオス言語学
Apendix A. Chaos Linguistics
 
 未だ学問とまでは行かず、提案にしかすぎないのだが、言語学におけるある種の問題は、言語を複雑でダイナミックなシステム、あるいは「カオスの分野」と見なすことによって解決できるかも知れない。
 ソシュールの言語学に対するあらゆる反応のうち、ここでは二点に注目したい。その最初のものは「反言語学」(antilinguistics)であり、それは−−近代において−−ランボーのアビシニアへの出立に端を発し、ニーチェの「文法を備えている限りにおいて、我々は未だ神を葬ってはいない」へ、ダダへ、コージブスキー[一八七九〜一九五〇、アメリカの科学者、一般意味論(general semantics)の創始者]の「地図は領土ではない」へ、バロウズのカット=アップと「「灰色の空間」へ突き抜けろ」へ、ゼルザンの表象=再現前と媒介=メディア化としての言語に対する攻撃へと、その跡を辿ることができるものである。
 第二に、「普遍文法」(universal grammer)とその系統図を信奉する「チョムスキー派の言語学」は、(わたしの信ずるところによれば)「隠された不変のもの」を発見することによって言語を「救済」しようと試みるものであって、それはある種の科学者たちが量子力学の「不条理」から物理学を「救済」しようとしていることと、ほぼ同じようなことである。アナーキストとしてのチョムスキーはニヒリストに味方することを期待されていたかも知れないが、その実彼の美しい理論は、アナーキズムよりもプラト二ズムやイスラム教神秘主義との共通点が多い。伝統的な形而上学は、言語を原型の色ガラスを通過して輝く純粋な光として描写しているが、チョムスキーは「生成」文法について語っている。言葉は葉であり、小枝はセンテンス、母国語は太い枝、語族は幹であって、そしてその根は「天国」に……あるいはDNAにある、と。わたしはこれを「錬金術的メタ言語学」(hermetalinguistics)と名付ける−−錬金術的にして形而上学的なものである。ニヒリズム(あるいはバロウズに敬意を表して「ヘヴィメタ言語学」)はわたしには、言語を袋小路に追い込み、それを「不可能」とすると脅かしているように見える(偉業ではあるが、しかし気の重いものである)−−一方、チョムスキーは最後の瞬間の保証と希望とを差し出しているが、わたしにはそれらは等しく受け容れがたい。わたしも言語を「救済」したいとは思うが、それはどんな「お化け」に頼るものであってはならないし、神、賽子、そして「宇宙」に関する想像上のルールを伴うものでもないのである。
 ソシュールへと、ラテン詩歌におけるアナグラムに関する死後に出版された彼のノートへと立ち返る時、シーニュ/シニフィエの力学から辛うじて逃れ得ることを可能とするプロセスのヒントが見出される。ソシュールは、「外部」から絶対的な規範として強制されたというより、むしろ言語の〈内部において〉派生するある種の「メタ」言語学を示唆するものに直面していたのである。彼が試みた語呂合わせ的(アクロスティック)[各行の頭あるいは末尾の文字を並べると、別の意味を持ったセンテンスになるもの]な詩の中でのように、言語が遊び始めた途端、それは自己増殖的な複雑さと共鳴するように見える。ソシュールはアナグラムを定量しようとしたが、彼の形象(フィギュール)は彼から遠ざかるばかりであった(あたかも非線形の方程式が関与していたかのように)。また、彼はアナグラムを〈あらゆるところ〉に、ラテン語の散文にさえも見出し始めた。彼は、自分が幻覚を見ているのではないか、と疑い始めた−−あるいは、アナグラムは〈パロール〉の本質的で無意識のプロセスなのではないか、と。彼はそのプロジェクトを放棄した。
 わたしは思う。もし、充分な量のこの種のデータがコンピュータを通じて複雑なやり方で処理されたなら、複雑な力学システムの用語で言語を設計することが可能となるのではないだろうか、と。文法は、そこにおいては「生成」ではなくなるであろうが、しかし、プリゴジーンの言う「創造的進化」という意味において、それは同時的に進化している「より高次の秩序」としてのカオスから浮上し始めるのではないか。文法は、「不思議な目を惹くもの」を見なされ得るかも知れないが、それはアナグラムを「引き起こした」隠されたパターンのようなものである−−それらのパターンは「リアル」ではあるが、それらが明示する副次的パターンの用語においてのみ、「存在」してきたものである。もし、〈意味〉が判然としないのであれば、恐らくは意識それ自体が、それ故言語も〈フラクタル〉であるからであろう。

 わたしは、反言語学あるいはチョムスキー主義のいずれかよりも、この理論の方がより確実にアナーキー的であることを発見した。それは、言語が表象=再現前と媒介=メディア化による伝達とを凌駕し得ることを暗示しているのだが、それは生成であるからではなく、〈なぜならカオスであるから〉である。またそれは、サウンド・ポエトリー、ジェスチャー、カット=アップ、ビースト・ランゲージ等々におけるあらゆるダダイスト的な試み(ファイヤアーベントは、彼の科学的認識論の学派を「アナーキスト・ダダ」と表現している)が、意味の発見や破壊を指向したものではなく、意味の〈創造〉を目指したものであったことを暗示している。ニヒリズムは陰鬱に、言語が「恣意的に」意味を創造すると指摘する。「カオス言語学」はそれに喜んで同意するが、しかし、言語は言語を超越し得ると、そして、言語はセマンティックな抑圧的な力の混乱と崩壊から自由を創造することができる、と付け加えるのである。

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