第一一コミュニケ
特別休暇シーズンの食物について
ラント:ライト(Lite)を消せ! [ラントは、八〇年代後半に流行した詩のスタイル]
Special holiday Season Food Issue
Rant: Turn Off the Lite!
 
 A.O.A.は、ライト(lite)という「合言葉」の下にマーケティングされるすべての製品のボイコットを呼びかける−−ビール、肉、低カロリーのキャンディー、化粧品、音楽、既にセットになっている「ライフスタイル」、あらゆるものの。
 ライト(シチュアシオニストの用語でのそれ)という概念は、「スペクタクル」による欲望の商品化に対するあらゆる嫌悪感を回収しようと望む、「スペクタクル」自身を象徴するコンプレックスを暴露するものである。「ナチュラル」、「有機栽培(オーガニック)」、「ヘルシー」な製品は、フューチャーショックの軽度(マイルド)の症状を呈し、本物への生半可(マイルド)な憧れを抱いた、何となく(マイルドリー)満たされていない消費者の市場セクター向けにデザインされたものである。いわゆる市場の隙間(ニッチ)は、単純さ、清潔さ、薄さ、そして少々の禁欲主義と自己否定という幻想によってソフトに照明され、〈あなた〉のために整えられている。もちろん、それは少々高価だが……結局のところ、ライトなものとは、食べ物を装飾というよりむしろ、未だに栄養と考えている貧しく腹を減らした未開人(プリミティーヴォ)たちのためにデザインされたものではないのである。それは高価でなければ〈ならない〉−−さもなければ、〈あなた〉はそれを買わないだろう。
 「アメリカの中流階級」(揚げ足をとらないこと。何を言いたいのか判るだろう)は、もちろん対立した、しかし相補的な内紛に陥るが、それがすなわち「拒食症」と「過食症」の二つの軍隊である。だが、これらの病の臨床的な症状は、深く広範で大抵は無意識な文化病理学という波に浮かんだ、心身症的な表面の泡を表象=再現前しているものに過ぎない。「過食症の人たち」は、ヤッピーに成り下がったジェントリーであり、彼らはマルガリータを鯨飲してビデオにかじりつき、その後でライトな食物、ジョギング、有酸素あるいは無酸素の軽運動に救済を求める。「拒食症の人たち」は、そんな「ライフスタイル」の反逆者で、すさまじく食べ物にうるさい人たちであり、藻類を食べる人たちであり、喜びをもたず、意気消沈し、蒼白い−−しかし彼らは、ピューリタン的な熱意とおしゃれな苦行衣を装った、独り善がりの人々なのだ。グロテスクなジャンク・フードは、嗜虐的な「健康食品」の裏面にしか過ぎない−−木屑か、添加物のような味しかしない−−それはすべてうんざりするか、発ガン性かのどちらかだ−−あるいは、その両方−−そしてそれらはすべて、信じられないほど〈馬鹿げて〉いる。
 食物は、それが調理されていようと生であろうと、象徴主義から逃れることはできない。それは、それ〈である〉ということと、そして同時にそれであるところのものを〈表象=再現前して〉いるのである。すべての食物は魂の糧(ソウル・フード)なのであって、それをそうでないものとして扱うことは、慢性にして形而上学的な消化不良を招くことである。
 しかし、ほとんどすべての経験が[メディアによって]媒介され、リアリティがコンセンサスの知覚の麻痺性の網によって汚されている我々の文明の風通しの悪い穴蔵で、我々は〈栄養〉としての食べ物との接触を失なってしまっている。それゆえ我々は、自身が消費するものに基づいたペルソナを自ら構築し始めるのだが、それは、〈生産物〉を本物への我々の憧れの投影と見なすことである。
 A.O.A.は、時にカオスを継続的創造の豊饒性を象徴するものとして、宇宙的な寛大さの一種の間欠泉としてイメージすることもあるが、それゆえ我々は、自らが「聖なる多様性」と「神聖な主体性」に背かぬように、いかなる特定のダイエットを擁護することも控えるのだ。我々は、完璧な健康のための、別のニューエイジの処方箋(死人だけが完璧に健康であるというもの)を、あなたに押し売りしているのではない。つまり我々が関心を寄せるのは〈ライフ〉であって、「ライフスタイル」ではないのである。
 我々が崇める真の軽さ、そして豊かな重さこそが、その時々の季節に我々を喜ばせる。過剰は我々を完全なものとし、適度なものは我々を喜ばせ、そして我々は、空腹こそが最高の調味料であり得ることを知っている。すべてのものは輝いて(ライト)〈いて〉、そして最も芳しい花々は、屋外便所のまわりに育つのだ。我々は、ファランステール[フーリエが理想とした社会主義的生活共同体]の食卓や、「ボロ・ボロ」の喫茶店を夢見るが、そこでは晩餐のお祭り気分の人々が、ブリア=サヴァラン(味覚の聖者)の個人的天分を分け合うことだろう。
 シェイク・アブー・サイード[一〇〜一一世紀のイスラムの神秘主義聖者]は、決して金を惜しまなかったし、宵越しの金を持つこともなかった−−それゆえ、パトロンが彼の巡礼宿に金の詰まった財布を献納した時はいつでも、彼のダルウィーシュたちは馳走の宴で祝福されることとなったし、そして他の日々は皆が空腹だった。要点は、満杯(full)と空(empty)の両方の状態を楽しむということにあったのである……
 ライトは、精神的な空虚さと精神的な啓蒙をパロディー化しているが、それは「マクドナルド」が満腹と祝福のイメージを装っているのと同じことである。人間の精神(空腹は言うまでもなく)は克服可能であるし、これらフェティシズムすべてを超えるものである−−喜びは「バーガー・キング」でさえも生まれ得るし、そしてライトなビールも一ダースのディオニューソスをその背後に隠し持っているかも知れない。しかし、なぜ我々は、今でも自分の葡萄とイチジクの木の下で天国の美酒を味わうことができるというのに、この安っぽい詐欺にも似た、ありきたりの、屑のような風潮と闘わねばならないのだろうか?
 食物は日常生活の領域に属するものであるが、日常生活とは、「世界規模の労働機械」とその紛い物の欲望に対抗する、あらゆる蜂起的な自己能力付与の、精神的な自己向上の、喜びの奪還の、反抗の最初の闘技場である。我々にはドグマ化するつもりは毛頭ないけれども、ネイティヴ・アメリカンの狩人ならリス肉のフライで幸せとなれたであろうし、アナーキーなタオイストであれば掌一杯の乾燥スモモで充分だったであろう。チベットの人ミラレパ[一一世紀の聖者、歌と音楽で啓蒙を説いた]は、十年間イラクサのスープで過ごした後にバター・ケーキを食し、悟りを得た。愚者はすばらしいシャンペンにさえ〈エロス〉を感じたりはしないが、魔術師は一杯の水にも酔うことができるのである。
 それ自身の汚染物質により窒息している我々の文化は、(死に臨んだゲーテのごとくに)「もっとライト[元は「光」の意]を!」と叫ぶ−−あたかもこれらの不飽和脂肪酸に満ちた廃水が、我々の不幸をどうにか緩和することができるかのように、あたかもそれらのどうでもよい味気ない無個性のブランドが、我々を迫りつつある暗闇から護ることができるかのように。
 断じて違う! この最後の幻影は、我々を恐ろしく無惨に打ちのめしてしまうことだろう。我々は自身の怠惰な性癖を乗り越え、立ち上がって抗議しなければならないのだ。ボイコットせよ! ボイコットだ! ライトを消せ!
 
補遺:アナーキストの黒い晩餐会のためのメニュー
   (菜食主義者と非菜食主義者のための)
 

 キャヴィアとブリンツ[ユダヤ料理。詰めものをパンケーキでくるんで焼いたもの]。百年ものの卵。インクで調理されたイカと米。皮に黒いピックルド・ガーリックが詰められたナス。黒いウォールナッツと黒いマッシュルームを添えられたワイルド・ライス。黒いバターで炒めたトリュフ。深鍋でマリネされた鹿肉を炭火で炙り、黒パンのスライスに載せ、ローストされたチェストナッツを添えられたもの。ブラック・ルシアン。ギネスとシャンペン。黒い中国茶。黒っぽいチョコレート・ムース、トルコ・コーヒー、黒葡萄、黒プラム、黒サクランボその他。

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