第六コミュニケ
COMMUNIQUE #6
I.黙示録のサロン:「秘密の劇場」 
I. Salon Apocalypuse : "Secret Theater" 
 
 スターリンが我々の首筋に息を吹きかけてこないあいだに、なぜ〈ある〉アート(方法)を……蜂起に奉仕させてはならないのだろう?
 もし、それが「不可能なこと」であっても、気にかけてはならない。「不可能なこと」以外に、我々は何を達成することを望むと言うのだ? 我々が自身の真の欲望を明らかにするためには、〈他の誰か〉を待たねばならないとでも言うのか?
 もし、アートが滅びた、あるいはオーディエンスが消え失せたとすれば、我々は、二つの恐るべき重荷から解放された我々自身を見出すことになる。もしかしたら、今やすべての人はある種のアーティストなのかも知れない−−そしてもしかすると、すべてのオーディエンスはその無垢性を、自分が経験したアートと〈なる〉その能力を、回復しているのかも知れないのである。
 もし、我々が自らの内部に持ち歩いている美術館から逃れることができ、そしてもし、自身の頭蓋骨の中のギャラリーのチケットを自らに売りつけることを止められるなら、我々は魔術師の目的を再創造するアートを構想し始めることができるだろう。すなわちそれが、命ある象徴の操縦によるリアリティ構造の変換なのだ(この場合、我々がこのサロンの組織者から「与えられて」きたイメージとは−−殺害、戦争、飢饉、そして強欲である)。
 我々は今や、テロリズム(アルトーによれば「残酷性」)への共鳴をいくらか備えた美学的な諸行為を構想できるかも知れないのだが、それは、人民よりも抽象概念の解体を、権力よりも平等であることを、仕事よりも娯楽を、恐れよりも喜びを指向するものである。それが「詩的テロリズム」なのだ。
 我々のために選ばれたそれらのイメージは、暗黒の潜在力を備えている−−しかし、それらすべてのイメージは仮面なのであって、それらの背後には、我々が光と喜びとに変えることができるエネルギーが隠されている。
 例えば、〈合気道〉を編み出した人物は侍であったが、彼は反戦論者となり、日本帝国主義のために闘うことを拒んだ。彼は世捨て人となり、山頂の樹下に座して生を過ごした。
 ある日、以前の軍隊の士官仲間が彼を訪れ、裏切り者、臆病者等と彼を非難した。隠遁者は何も語らず、そして座り続けた−−士官は怒りに駆られ、刀を抜き、切りつけた。無意識の内に丸腰の達人は士官の武器を奪い、それから刀を士官に返した。何度も何度も士官は、彼のレパートリーにあるすべての巧緻な〈型〉を用い、殺そうと試みた−−しかし、世捨て人は無の心のままに、常に士官を武装解除する術を発明したのであった。
 その士官はもちろん彼の第一の弟子となった。後に、彼らは〈弾丸を避ける〉術を習得したのである。
 我々は、このパフォーマンスの趣向を把握するために、メタドラマのいくつかの形を構想すべきかも知れないが、それは、その趣向がまったくの新しいアート、闘争のまったくの非暴力的な方法を提起しているからである−−殺害を伴わない戦争、死に勝る「生命の剣」なのだ。
 爆弾魔のように匿名で、しかし、暴力よりも無償の寛容の行為を指向した−−黙示録よりも千年王国を指向した−−あるはむしろ、実現と解放に奉仕する美学的ショックの〈今この瞬間〉を指向した、アーティストの陰謀団。
 アートは華麗な嘘をつき、それは実現するのである。
 アーティストとオーディエンスとがどちらも完全に消滅してしまっている秘密の劇場を創造することができるのだろうか?−−ただ、生命とアートとが同じものとなっている、つまり贈り物の純粋な贈与となっている別の局面に、もう一度立ち現れるために?
 

 (註:「黙示録のサロン」は一九八六年六月、シャロン・ギャノンにより組織された。)

 

II. 殺害−−戦争−−飢饉−−強欲
II. Murder - War - Famine - Greed
 
 マニ教徒とカタリ派は、身体は霊化できると信じていた−−あるはむしろ、身体はただ純粋な精神を汚損するものであり、それゆえ完全に排除されねばならないと信じていた。グノーシス派の〈完全主義者たち〉(急進的二元論者たち)は、身体を逃れ、そして純粋な光の満ちた状態へと回帰するために、死に至るまで飢えた。
 それは、肉体の悪魔−−殺害、戦争、飢饉、強欲−−を回避するためには、パラドックス的にただ一つの道だけが残されているということであって、すなわちそれが自己の身体の殺害、肉体への戦争、死に至る飢饉、救済のための強欲なのである。
 急進的な一元論者たち(イスマーイール派、原始メソジスト教徒、信仰至上主義者)はしかし、身体と精神とは一つであり、黒い石に浸透するものと同じ精神がその光を肉体にしみこませると考えているのだが、それはすべてのものが生きており、すべてのものが生命であるということである。「事象とは、自然発生的なものである……すべてのものは自然である……あたかもそれらが、それらを動かす真の君主であるかのごとくに、すべては動いている−−だがしかし、我々がこの君主の存在の証明を捜し求めるならば、何物も見い出しはしないだろう」。(荘子)[この部分英訳からの重訳]
 パラドックス的なことに、この一元論者の道程も、ある種の「殺害、戦争、飢饉、強欲」なしに辿ることはできない。つまりそれらは、死の、生命(食物、反エントロピー)への変容なのである−−「虚偽の帝国」に対する戦争なのだ−−「魂の断食」あるいは「虚偽」の拒絶、生命でないすべてのものの拒絶−−そして生命自体への強欲、欲望の絶対的な力なのである。
 さらに言えば、次のようになる。つまり、暗黒の知識(「肉体の知識」)なくしては、どのような光の知識(「グノーシス」)も存在できないのである。この二つの知識は、単にお互いを補完し合うものではなく、むしろ、違ったオクターブで奏される同じ旋律のように〈同一のもの〉なのだ。ヘラクレイトスは、リアリティーは「戦争」の領域の中に存続する、と提唱する。不調和な旋律だけが、ハーモニーを生むことができるのである。(「カオスはすべての秩序の総体である。」)
 これらの四つの言葉に、言語の異なった仮面を与えること(復讐の女神たちを「情け深い神々」と呼ぶことは、単なる婉曲語法ではなく、〈さらなる意味〉を明らかにする方法である)。アートとしての仮面をつけ、アートとして儀式化され、アートとして現実化されて、これらの言葉はそれらの暗黒の美を、それらの「黒い光」を身にまとうのである。
 殺害のかわりに〈狩〉と言うこと、それは、すべてのアルカイックで非権威主義者的な部族社会の、純粋な旧石器時代の経済である−−「狩猟」、それは殺して肉を食すことであり、ヴィーナスの、欲望の流儀である。戦争のかわりに〈蜂起〉と言うこと、それは階級間や権力間の革命ではなく、永遠の謀反の革命、光の幕を上げる暗黒のものである。強欲のかわりに〈熱望〉と言うこと、それは制圧不可能な欲望であり、狂気の愛である。そして、一種の不完全化のかわりに、「他者」へと向けて外部へと螺旋状に進む自己の総体、豊富さ、有り余る豊かさ、寛容のことを語ること。
 この仮面の舞踏なくしては、何ものも創造されはしないだろう。最古の神話は、エロスをカオスの最初の骨としている。エロス、人に馴れている野性のものは、アーティストがカオスへ、神へと回帰し、そして、美のパターンの一つをまとって再びこちらへ回帰する、立ち戻る際に通過する扉なのである。アーティストは、狩人であり戦士である、つまり彼は、情熱的であると同時にバランスのとれた存在であり、強欲であると同時にこれ以上はないほど利他的なのだ。我々は、我々自身から救われるような救済をまぬがれていなければならないが、それは、その救済が我々の生命力そのものとしての我々の魂(アニマ)でもあり、同様に我々の自己への能力付与で、怒りと強欲を明らかにするものでさえもある我々の生命の原動力(アニムス)としての、我々の獣性(アニマル)からの救済なのだから。「バビロン」は我々に、我々の肉体は堕落していると告げている−−この策略と救済の約束をもって、それは我々を奴隷としたのである。しかし−−もし、肉体が既に「救われて」いて、既に〈啓蒙されている=照らされている=ライト〉ならば−−もし、意識それ自体が一種の肉体であり、触知できるものであると同時に生きているエーテルであるならば−−我々は、我々を仲介するどのような力も必要とはしない。野性は、オマル・ハイヤームが言うように、〈今でさえ〉パラダイスなのだから。
 〈殺害〉の真の主権は「帝国」に属するものであるが、なぜなら、ただ自由のみが完全な生活であるからだ。〈戦争〉も同様に、「バビロン人」のものである−−自由な人間であれば、他の者の地位を高めるために死んだりはしないだろう。〈飢饉〉は、救世主の、預言者の王の民と共に〈だけ〉存在することができる−−ファラオにその色あせない未来に投機することを教えたのは、ヨセフではなかったのか? 〈強欲〉−−土地に対する強欲、象徴的富に対する強欲、そして他者自身を〈救済する〉ために、その魂と身体とを歪ませる力に向けられた強欲−−強欲もまた、「自然が自然化すること」から発生するのではなく、すべてのエネルギーを「帝国の栄光」のために抑圧し、誘導することから生ずるのだ。
 これらすべてに対抗して、アーティストは仮面の舞踏、言語の総合的な急進化、「詩的テロリズム」の発明を備えているが、それは生きている存在をではなく、有害な〈諸思想〉、我々の欲望の棺桶の蓋の上に乗った恐るべき重荷を打ち据えるであろう。窒息と麻痺の構造は、すべてのものを我々が完全に祝うことによってのみ〈吹き飛ばされる〉であろう−−それが暗黒であっても。
 

                   −−一九八六年、夏至に

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