「クロアタンへと去りぬ」
"Gone to Croatan"
 
 我々には、TAZを定義しようとか、あるいはそれがどのようにして創造され〈ねばならない〉かについてのドグマを精妙に作り上げようという欲望はない。我々の主張はむしろ、TAZはこれまで創造されてきたし、将来も創造されるであろうし、また、今も創造されつつある、ということにある。それゆえ、過去と現在におけるTAZのいくつかを観察し、未来におけるその出現を推測する方がより有益で興味深いであろうし、いくつかのプロトタイプを引合いに出すことで、我々は文化複合の潜在的領域を計測し、またおそらくは、その「原型」というものを垣間みることができるかもしれない。それゆえ、どんな種類の百科全書主義を試みるよりも、きわめて気ままに一六世紀から一七世紀、そして新世界の植民地から始る散弾銃の盲撃ちの技術、つまり一瞥のモザイクを採用することにしよう。
 「新」世界の幕開けは、その端緒から一人の〈オカルティストの計画〉であったと見なされていた。エリザベス一世の心霊的助言者であった魔術師ジョン・ディーは、「魔術的帝国主義」の概念を生み出し、その世代全体をそれによって染め上げていたように思える。リチャード・ハクルートとウォルター・ローリーがその呪縛の虜となり、ローリーは、さらなる探検、植民地化、そして地図作成のために、「夜の学派(スクール・オブ・ナイト)」−−進歩した思索人、高級官僚、そして熱烈な信者の秘密結社−−との関わりを用いた。シェイクスピアの『嵐(テンペスト)』は、その新しいイデオロギーのプロパガンダ作品であり、そして英国による初めてのアメリカ植民地であるロワノウク・コロニーはその最初の公開実験であった。
 「新世界」の錬金術的考察は、「新世界」を〈第一質料〉(materia prima)あるいは〈質料(ヒュレ)〉に結び付けて考えていたが、それは「自然の状態」であり、無垢とすべての可能性(「処女の地域=Virgin-ia」)であり、信奉者が「黄金」へ、つまり物質的豊富さと〈同様に〉心霊的な完全性へと変容させるはずの、カオスあるいは未完成性であった。
 しかし、この錬金術的ビジョンは、未完成に対する実際の誘惑、それに向けられた密やかな共感、そして、中心に「インディアン」のシンボルを掲げたその形態なき形態を切望する感情によっても部分的に特徴づけられていた。インディアンとは、自然の状態〈の中にいる〉、未だ「管理」によって堕落させられていない「人間」である。「野性の人」であるキャリバンは、「オカルト帝国主義」の機構の核心にウィルスのように突き立てられていて、そして森林/獣/人間たちは、マージナルで忌み嫌われ、放逐された魔術の力を、その始源から身に帯びているのである。一方ではキャリバンは醜く、そして「自然」は「寂しい荒野」である−−他方、キャリバンは高貴で鎖に繋がれておらず、「自然」は楽園の地(エデン)である。ヨーロッパ的意識におけるこの分裂は、「ロマン主義」/「古典主義」という二分法に遡ることができるし、その起源をルネサンス時代の「高等魔術」に置いている。アメリカ(エルドラド、「青春の泉」)の発見がその分裂を具体化し、そしてそれは、植民地化のための実際の計画のうちに凝結したのであった。
 我々は小学校で、ロワノウクでの最初の開拓地は失敗した、と教わった。植民者たちは姿を消し、その後にはただ、「クロアタンへと去りぬ」という謎めいたメッセージだけが残されていたのだ、と。その後もたらされた「灰色の眼をしたインディアン」という報告は、伝説にすぎないと片付けられた。この事件の真相は、教科書がほのめかすところによると、インディアンが無防備の植民者たちを虐殺したということであった。しかし、「クロアタン」とは黄金郷はなく、それは友好的な近隣のインディアンの部族名だったのである。明らかにその入植地は、単に海岸部からディズマル大湿地へと後退し、その部族に吸収されてしまったのだ。そして、灰色の瞳のインディアンは実在のものであった−−彼らは〈未だそこに〉いるし、そして未だに自らをクロアタンと呼んでいる。
 つまり−−「新世界」での最初の植民地は、プロスペロー(あるいはディー/ローリー/「帝国」)との契約を破棄することを選択し、キャリバンとともに「野性の人々」へと身を投じたのである。彼らは、ドロップ・アウトしたのだ。彼らは「インディアン」となり、「ネイティヴとなり」、ロンドンの金権政治家と知識人の奴隷というおぞましい苦痛を脱し、カオスを選び択ったのである。
 かつて「海亀島」があったところにアメリカが出現しても、クロアタンはその集団心理に埋め込まれたままであった。フロンティアを超えた外部では、「自然の状態」(言い替えれば「国家」が存在しないところ)が未だ優勢であった−−入植者の意識の内には、常にその野性という選択肢が、そして、「教会」を、農場仕事を、読み書きを、税金を−−文明のすべての重責を−−捨て去りたいという欲望が−−そして様々な意味で、「クロアタンへ行く」ということが潜んでいたのである。さらに、まずクロムウェルと王政復古によって英国での「革命」が裏切られたときに、プロテスタントの急進派の波が、「新世界」(今や〈牢獄〉、〈流刑〉の地と化していた)へと逃れた、あるいは移入された。信仰至上主義者、愛の家族教徒、さまようクェーカー教徒、水平派、真性平等派、そして原始メソジスト教徒の人々は、今や野性のオカルト的な暗部を紹介され、そして、それに応じて殺到したのであった。
 アン・ハッチンスンと彼女の友人たちは、ただ最も良く知られた(すなわち最も上流階級の)信仰至上主義者であったにすぎない−−ベイ・コロニーの政治に巻き込まれるという悪運を備えてはいたが−−しかし、この動きのさらにラディカルな勢力も明らかに存在していたのである。ホーソンの「メリーマウント入植地の五月祭の柱」に関する小説が歴史に基づいているのは確かなことであり、すなわち明らかに過激派はキリスト教をそっくりそのまま放棄し、異教へ帰属することを決意していたのである。もし、彼らがインディアンの盟友たちとの同化に成功していたなら、その結果は、信仰至上主義/ケルト/アルゴンキン系部族的な要素が入り交じった宗教であったであろうし、一種の一七世紀北アメリカの〈サンテリア教〉であったことであろう。
 分離派教会信徒たちは、カリブ地域におけるよりルーズでより堕落した当時の政権のもとでなら一層栄えることができたであろうが、そこでは多くの島々が、ライヴァルであったヨーロッパ諸国の興味を惹かないまま、請求されもしないで残されていた。特に、バルバドスとジャマイカは大勢の過激派によって入植されてもしかるべきであったし、わたしは、水平派と原始メソジスト教徒の影響が南海の海賊バッカニアにトルトゥガでの「ユートピア」をもたらした、と信じている。ここにおいて初めて、エスケメリングのおかげで[ジョン・エスケメリング、石島晴夫編訳『カリブの海賊』一九八三年、誠文堂新光社を参照]、我々はある程度深く、「新世界」において成功した原始的なTAZについて学ぶことができる。奴隷制、農奴制、人種差別、そして不寛容といった帝国主義の忌まわしい「恩恵」から、軍隊への強制徴募やプランテーションの生きる屍のような生活から身を避けたバッカニアたちは、インディアンの方法を取り入れ、異教徒のカリブ人と婚姻を結び、黒人とスペイン人も等しく受け入れ、すべての国籍を拒否し、彼らの船長を民主的に選挙で選び、そして、「自然の状態」へと帰依したのである。彼ら自身は「全世界と戦争状態にある」と宣言していたが、彼らはあまりに人類平等主義的であったため、全員で一〇とすれば船長は通常一.二五あるいは一.五しか取らないという「協定」と呼ばれる相互契約のもとに、略奪の旅に船出した。鞭打ちと刑罰は禁じられていた−−喧嘩は、投票や決闘の掟で鎮められた。
 歴史家のある者が行ったように、海賊に単なる海の追い剥ぎ、あるいは原始的資本主義者という烙印を押すことはまったくの誤りである。ある意味では彼らは「社会の敵」であったが、とは言え、彼らを支えたコミュニティは伝統的な農民社会ではなく、殆どが未知の世界における無から創造された「ユートピア」、地図上の空白の空間を占拠していた完全な自由をもった小領域であった。トルトゥガの没落の後、バッカニアの理想は海賊の「黄金時代」(一六六〇〜一七二〇年頃)を通じても生き残り、それはバッカニアによって創設された植民地、例えばベリーズにおいて結実した。そして、マダガスカルへと眼を転じれば−−この島は、まだどの帝国権力によっても求められてはおらず、それぞれが海賊との同盟を望んでいた土着の王たち(酋長)によって細切れに治められていた−−ここにおいて、「海賊のユートピア」はその最高の形態へと到達したのであった。
 デフォーがミッション船長とリベルタティアの創設について著したものはおそらく、歴史家のある者が言うように、急進的ホイッグ党の理論のプロパガンダを意図した文学的捏造なのであろう−−だがそれは、大部分が今でも事実であり、正確であると思われている『海賊全史』(一七二四〜二八年)にも取り入れられている。さらにミッション船長の物語は、その本が出版されたときに年老いたマダガスカルの船員たちが大勢存命中であったにも関わらず、何の批判もなされなかった。〈彼らは〉それを信じていたのであろう、なぜなら彼らは、疑いもなく、海賊の小領域をリベルタティアに酷似したものとして経験していたからである。くどいようだが、解放された奴隷、土着民、そしてポルトガル人のような昔からの敵国人でさえ、平等の待遇で参加を誘われていたのだ(奴隷船の解放は彼らの最も重要な仕事であった)。土地は共有され、彼らの代表は短い任期で選任され、略奪物は分配された、そして、自由の原則は『コモン・センス』のそれよりも、はるかにラディカルに説かれていたのである。
 リベルタティアは持ちこたえることを望まれ、ミッション船長はその防戦のうちに命を落とす。しかし、海賊のユートピアの大部分は一時的なものである定めにあった、つまり実際には海賊たちの真の「共和国」とは彼らの船であったのだが、それは「年季契約」で航行していたのである。陸上の小領域には法律は通常存在しなかった。最後の古典的な例として、バハマのナッソー、バラックとテントの建つ海岸のこの盛り場は、酒と女(そしておそらく少年−−バージの『男色と海賊行為』から判断すると)、唄(海賊は度が過ぎるほどに多くの音楽を好んでいたし、航海を通じて楽団を雇うのが常だった)のためのものであり、そしてまったく卑劣にも、英国海軍が湾に現れたならば一夜にしてその姿を消したのであった。黒髭船長、「キャラコのジャック」ラカムとその女海賊の乗組員たちは、より未開の海岸部と惨い運命へと船出し、一方他の者たちは屈辱のうちに特赦を得て改心した。しかし、バッカニアの伝統は持ちこたえたのである、海賊の血筋を受け継いた混血児たちが彼ら自身の王国を創り出しかけていたマダガスカルで、そして、黒人/白人/赤色人種の混血と同様に逃亡奴隷たちが「マルーン」として山地や奥地で栄えることのできた西インド諸島で。ジャマイカにおけるマルーンのコミュニティは、ゾラ・ニール・ハーストンが一九二〇年代にそこを訪れた時にも(『テル・マイ・ホース』を参照)、相当大きな自律と多くの古い習俗とを保持していた。スリナムのマルーンでは、未だにアフリカ的「異教信奉」が実践されている。
 一八世紀を通じて北アメリカは、数多くのドロップアウトした「三つの人種による孤立したコミュニティ」をも産みだした。(この臨床的に響く用語は優生学運動によりもたらされたが、この学問はこれらのコミュニティに関する科学的研究を最初になしたものである。だが不幸なことに、この「科学的」とは、単に人種差別的な「雑種」と貧しい人への嫌悪に対する口実として役立ったに過ぎず、そして「問題の解決」とは通常、強制的不妊手術であった。)そのコミュニティの核心には、常に、逃亡奴隷と農奴、「罪人」(つまり非常に貧しい者)、「売女」(すなわち非白人と結婚した白人女性)、そして多くの土着部族の構成員がいた。ある場合には、セミノール族やチェロキー族のような伝統的な部族構造が新参者を吸収し、他の場合には新しい部族が形作られた。それゆえ我々は、一八世紀と一九世紀を通じて生き残り、逃亡奴隷を受け入れ、「逃亡経路」としても機能し、そして奴隷の反乱のための宗教的・イデオロギー的な中心地として機能していた、ディズマル大湿地のマルーンを取り上げるのである。その宗教はヴードゥー教、つまりアフリカ、土着、そしてキリスト教の各要素の混合物であり、歴史家であるH・リーミング=ベイによれば、その宗教の長老たちとディズマル大湿地のマルーンの指導者たちは、「天高く輝ける七本指の者たち」として知られていた。
 ニュージャージー州北部のラマポゥ山地の混血の人々(誤って「ジャクソン・ホワイト」として知られる)は、もう一つのロマンティックで原型的な系図を見せてくれるが、それはすなわち、オランダの腰抜け共から解放された奴隷、デラウェア族とアルゴンキン族の様々な氏族、お決まりの「売女たち」、「傭兵たち」(英国の金で雇われたが逃亡したごろつきのためのキャッチフレーズ、落ちこぼれた愛国主義者等々)、そして、クローディアス・スミスのそれのような社会の敵である土着のバンドである。
 アフリカ=イスラム的起源は、モールズ・オヴ・デラウェアやベン・イシュメイルといったいくつかの団体によって主張されているが、彼らは一八世紀中葉、ケンタッキーからオハイオへと移民したものである。イシュメイルズは一夫多妻制を実践し、決して飲酒することなく、吟遊楽人として生計を立て、インディアンと異人種間の婚姻を結び、彼らの習俗を受け入れ、そして、あまりにノマディズムに入れ込んでいたために車輪付きの家を建てたほどであった。彼らの年毎の移動は、フロンティアを三角測量し、メッカやメディナといった名前をつけるものだった。一九世紀には、彼らのある者はアナーキズムの理想を信奉しており、そのために彼らは優生論者による根絶という救済の特に悪徳な組織的虐殺の標的とされた。初期の優生論的法律のいくつかは、彼らを想定して議会を通過したものだった。部族としての彼らは一九二〇年代に「消滅」したが、しかしおそらく、モーリッシュ・サイエンス・テンプルのような初期の「ブラック・イスラム」のセクトの地位を高めたのである。
 わたし自身は、ニュージャージーのパイン・バレンズ近郊の「カリカク家」の伝説を耳にして成長した(それにもちろんラブクラフトについても。彼は孤立したコミュニティというものに魅了された、狂信的な人種差別論者であった)。この伝説は結局、優生論者たちによる誹謗中傷の民間伝承であることが判明しているが、彼らの米国における中枢はニュージャージーのヴァインランドであり、彼らはバレンズにおける「異種族混交」と「低能」に対するお決まりの「矯正」を請け負っていたのである(それはカリカク家の写真集の刊行も含むが、その写真は、彼らを誤った交配による怪物のように見せるための粗雑で一目でわかる加筆訂正が施されている)。
 これらの「孤立したコミュニティ」−−少なくとも二〇世紀までそのアイデンティティーを保っていたもの−−は一貫して、文化の主流にも、近代の社会学者が彼らを分類しようとしている黒人の「サブカルチャー」にも吸収されることを拒み続けている。一九七〇年代、ネイティヴ・アメリカン復権運動に触発されて、それらの集団のいくつか−−モールやラマポゥ山地の混血の人々を含む−−は、〈インディアンの部族〉としての承認を求めてインディアン局に申請した。彼らは、ネイティヴの活動家たちの援助は受けたが、公的な身分の認知は拒絶された。しかし彼らが勝利していたら、結局のところは「白人のペヨーテ教信者」やヒッピーに始まり、ブラック・ナショナリスト、ナチスを信奉する非ユダヤ系白人、アナーキスト、そして自由主義論者たちまでの、あらゆる種類のドロップアウトした人々のための危険な判例となっていたことだろう−−すべての人のための〈居留地〉である! 「ヨーロッパ的プロジェクト」は、「野性の人」の存在を理解し得ない−−緑のカオスは、帝国主義的な秩序の夢にとっては未だに充分な脅威なのである。
 本質的には、モールとラマポゥ山地の混血の人々は、インディアンの養子縁組の「神話」に基づく「共時的な」自己アイデンティティの方を好み、彼らの起源の「通事的」、あるいは歴史的な解釈を拒絶した。別の言い方をすれば、〈彼らは自身を「インディアン」と名付けた〉のである。もし、「インディアンになりたい」と望む人が誰でも、それを自己命名の行為によって成し遂げることができるとしたら、どのようなクロアタンへの出発が起こるかを想像してみるといい。昔のオカルトの影は、未だに我々の森の切れ端に付きまとっているのだ(ところでそれは、広大な農業用地が雑木林へと戻る形で、一八世紀から一九世紀にかけて北東部で著しく増加した。ソーローはその死の床で、「……インディアン……森……」の帰還の夢をみた。つまり、抑圧されたものの回帰である。)
 モールとラマポゥの人々は、もちろん、彼ら自身をインディアンと考えるに足る唯物論的な理由を備えている−−結局、彼らはインディアンの祖先を持っているのだから−−しかし我々が彼らの自己命名を、歴史的期間においてと同様に「神話性」において見るとき、我々のTAZ探求とのさらなる関連を学ぶことであろう。部族社会においては、人類学者のあるものが〈マンネンブンデン〉と呼ぶものが存在しているが、それはつまり、変身行為、トーテムである動物(人狼、ジャガーの神官、豹男、猫女等々)と〈なる〉行為において「自然」と一体化するためのトーテム的社会である。完全な植民地社会の文脈においては(タウシッグが『シャーマニズム、植民地主義、野性の人』の中で指摘しているように)、その変身の力は、総括的にはネイティヴな文化に固有なものと考えられている−−それゆえ、社会の最も抑圧された領域が、そのオカルト的知識の神話を通じてパラドックス的な力を得るのであり、それは入植者から恐れられ、渇望されるのである。もちろんネイティヴたちはある種のオカルトの知識を実際に備えているのだが、ネイティヴ文化を「超自然的な野性/原野」の一種とする「帝国的」な認知に対応して、ネイティヴたちはさらに一層その役割の内に自らを自覚するようになる。彼らがまさにマージナルなものとされるとき、その〈縁(マージン)〉が魔術のアウラをまとうのだ。白人が訪れる以前、彼らは単に人間たちからなる部族であった−−しかし、今や彼らは「自然の守護者」であり、「自然の状態」の住人なのである。最後には、植民者自身がこの「神話」によって堕落させられることとなる。アメリカ人がドロップアウトしたい、あるいは自然に還りたいときはいつでも、彼は常に「インディアンになる」。ボストン茶会事件を組織し、政府を廃止できると(バークシャー地域全体が「自然状態」にあると宣言したことがある!)心から信じていたマサチューセッツ州の急進的民主主義者たち(急進的新教徒の精神的末裔たち)は、彼ら自身を「モホーク族」と偽っていた。このように突然、母なる大地と向かいあうマージナルなものとして自身を捉え、マージナルなものとされたネイティヴとしての役割を受け入れた入植者は、それによって(ある意味では)彼らのオカルトの力を、神話的な光輝を共有することを望んでいたのである。「山の人々」からボーイスカウトにいたるまで、この「インディアンになる」という夢は、アメリカの歴史、文化、そして意識の無数の縒り糸の下に流れている。
 「三人種混合」集団と結びつけらた性的なイメージも、この仮説を裏書きする。「ネイティヴたち」は、もちろん通常は不道徳である、しかし、人種的背教者やドロップアウトたちは、紛れもなくポリモーファスな倒錯者でなければならない。バッカニアは男色者であり、マルーンと「山の人々」は異種族混交であり、そして「ジューク家とカリカク家」は姦淫と近親相姦に耽り(その結果、多指症のような奇形となり)、その子供たちは裸でそこら中を走り回り、人の前でマスターベートする云々。「自然の状態」への回帰は、パラドックス的にすべての「〈不〉自然な」行為の実践を許されているかのように見えるが、それは、我々が清教徒と優生論者を信じるときにそのように思われるのだ。そして、抑圧されモラリスティックで人種差別論者の社会に暮らす多くの人々がまさにこれらの淫らな行為を欲しているがために、彼らはそれらを外部のマージナルなものとされた人々へと投影し、それによって、彼ら自身が未だ文明人であり、純血であることを自身に確信させているのである。そして実際、マージナルなものとされたコミュニティのあるものは、本当にそんなコンセンサスの道徳を拒絶している−−海賊は確かにそうした! −−そして、疑いもなく、文明の抑圧された欲望のいくつかをやり遂げる。(あなたはそうしないのですか?)「野性」となることは、通常はエロティックな行為であり、むき出しの行為なのである。

 「隔離された三人種集団」という主題を終える前に、わたしはニーチェの「人種混交」への熱狂を回想したいと思う。混血文化の活発さと美に感動した彼は、人種問題に対する解答としてではなく、民族の、そして国家の狂信的愛国主義から自由となった新しいヒューマニティーのための原則としても、異種族混交を提唱した−−おそらく彼は、「心理的ノマド」の先駆者なのだ。ニーチェの夢は、それが彼を訪れたときと同様に、未だはるか彼方にあるように見える。よろしい、狂信的愛国主義は未だに支配的である。混合文化は隠蔽されたままである。しかし、ニーチェが「消滅としての力への意志」と呼んでいたであろうものの徴候としての、バッカニアの、マルーンの、イシュメイルズの、モールの、ラマポゥの、そして「カリカク家」の自律ゾーンは、あるいは彼らの物語は存在し続けているのである。我々はこの主題に再び立ち返ってこなければならない。

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