組織原理としての音楽
Music as an Organizational Principle
 
 しかしここで我々は、TAZの概念の光のもとで古典的なアナーキズムの歴史を振り返ることにする。
 「地図の閉鎖」以前に、甚だしく多量の反権威主義的なエネルギーが、『モダン・タイムズ』のような「現実逃避者」のコミューン、数々のファランステールといったものへと注ぎ込まれていた。興味深いことに、それらのうちのいくつかは、「永遠に」にではなく、ただそのプロジェクトが完了したと証明されるまで持ちこたえることを意図されていた。「社会主義者/空想的社会改良論者(ユートピアン)」の基準ではこれらの試みは「失敗」であったために、我々がそれらについて知ることはほとんどない。
 フロンティアを越えての逃避が不可能だと証明されたとき、革命的な都市コミューンの時代がヨーロッパで始まった。パリ、リヨン、マルセイユのコミューンは、永続性の特質を帯びるほど長くは存続しなかったし、そのような意図があったのかには疑わしいものがある。我々からみたそれらの魅力の要点は、それらコミューンの〈精神〉である。その数年を通じ、そしてその後も、アナーキストたちは蜂起から蜂起へと漂い流れつつ、彼らの内部に蜂起の瞬間に体験した精神の強烈さを保持することを期待しながら革命的なノマディズムの実践を継続した。事実、シュティルナー主義/ニーチェ主義のアナーキストのある者は、この活動がそれ自体で一つの目的であり、〈常に一つの自律ゾーンを占拠する〉一方法であり、戦争と革命の勃発の最中に開花する緩衝地帯と見なすに至っていた(同様のものに、トーマス・ピンチョンの『重力の虹』[越川芳明訳、一九九三年国書刊行会]における「ゾーン」がある)。彼らは、もしいかなる社会主義的革命が〈成就した〉としても、それに刃向かう最初の者となるつもりだ、と宣言した。普遍的なアナーキーに到達するまで、彼らには立ち止まるつもりなどなかったのである。一九一七年のロシアで、彼らは自由ソヴィエトを喜び迎えた。つまり、〈これが〉彼らのゴールであったからである。しかし、ボルシェビキが「革命」を裏切るや否や、個人主義的アナーキストたちは闘争に逆行する最初の者たちとなった。クロンシュタットの事件の後では、もちろん、〈すべての〉アナーキストが「ソヴィエト連邦」(用語的に自己矛盾している)を糾弾し、そして新たなる蜂起を捜し求めてその先へと進んだのであった。
 マフノのウクライナとアナーキストのスペインは〈永続〉を意図しており、継続的な戦争という緊急事態にも関わらず両者はある程度それに成功した。それはつまり、彼らがいわゆる「長期間」持ちこたえたということではなく、彼らは上首尾に組織されていたので、外部の侵略がなければやり通していただろう、ということである。それゆえ戦争中に行われた諸実験の中から、かわりにわたしは無鉄砲なフィウーメ共和国へと専ら心を振り向けるのだが、その共和国はさらに知名度が低く、そして持ちこたえるには向いて〈いなかった〉ものである。
 デカダン派の詩人にして芸術家、音楽家、美学者、女たらし、飛行家の向こう見ずな先駆者、黒魔術師、天才にしてごろつきであったガブリエル・ダンヌンツィオは、その指揮下の少数の軍隊、すなわち「決死隊(アルディーチ)」を率いる英雄として、第一次世界大戦で頭角をあらわした。冒険を求めるあまり、彼はユーゴスラヴィアからフィウーメの街を攻略し、イタリアへ〈献上する〉ことを決心した。ヴェニスの共同墓地に埋葬されていた彼の女主人との降霊占いの後、彼はフィウーメ征服の途につき、とりたてて言うほどの困難にも遭わずにそれに成功した。しかし、イタリアは彼の気前の良い申し出を却下した−−首相は、彼を馬鹿者と呼んだのである。
 その仕打ちにむっとして、ダンヌンツィオは独立を宣言することを決意し、どのくらいの期間にわたってやり通せるか見てやろうと心に決めた。彼とアナーキストの友人の一人が憲法を起草したが、それは、〈音楽がこの国家の大原則でなければならない〉と宣言するものであった。その国の海軍(脱艦兵と、ミラノのアナーキストで沿海州出身の統一主義者たちから構成されていた)は〈ウスコック人〉を自称したが、この大昔に消滅した海賊たちは、かつて沖合いの偏狭な島々に暮らし、ヴェニスとオスマン・トルコの通運を襲っていたものである。この近代のウスコック人たちは、いくつかの乱暴な大当たりを勝ち得た。すなわち、何隻かの裕福なイタリア商人の船が突然、共和国の前途を照らし出したのである。その金庫の中の金によって! 芸術家、ボヘミアン、冒険家、アナーキスト(ダンヌンツィオはマラテスタに相当する)、逃亡者と「国を持たない難民」、同性愛者、めかしたてた軍人(その軍服は黒地に髑髏と交差した骨の海賊のしるし−−後にナチの親衛隊によって模倣された)、そしてあらゆる型の活発な改革者たち(仏教徒、神智論者、ヴェーダンタ哲学の徒も含む)は、群をなしてフィウーメに姿を見せ始めた。パーティーが果てることは決してなかった。毎朝ダンヌンツィオは、バルコニーから詩とマニフェストを読み上げ、そして夜はと言えばコンサート、それから花火であった。これがこの政府の活動のすべてだったのである。一八カ月後、ワインと資金とが底をつき、そして〈ようやく〉イタリア艦隊が姿を現して「町役場」に何発か大砲をお見舞いしたときには、誰にも抵抗するエネルギーは残っていなかった。
 ダンヌンツィオは、多くのイタリア人アナーキストと同様、後にファシズムへと傾倒した−−事実、ムッソリーニ(元サンディカリスト)自身が、そのようにこの詩人を堕落させたのである。ダンヌンツィオが自らの誤りに気づいたときにはもう遅かった、つまり年老い、病んでいたのである。だがいずれにしろ、この元首(イル・ドゥーチェ)はダンヌンツィオを殺していたことだろう−−バルコニーを取り外していたことだろう−−そして、彼を「殉教者」としたことだろう。フィウーメに関しては、自由ウクライナやバルセロナの備えていた〈真面目さ〉を欠いてはいたが、我々の探求のある局面についてより多くのことを教えてくれるに違いない。それはいくつかの意味で、海賊のユートピア(あるいは単なるその近代の例)の終焉であった−−その他の意味においては、おそらくそれは、最初の近代的TAZに非常に近いものであった。
 もしも我々が、フィウーメを一九六八年のパリ蜂起と(そして七〇年代初頭のイタリアでの都市蜂起と)、そしてアメリカのカウンターカルチャーのコミューンとそれらのアナルコ・ニューレフト勢力と比較するならは、いくつかの類似点に気付くだろうとわたしは信じているが、それは例えば、美学的理論の重要性(シチュアシオニストと比較せよ)−−社会的な過剰生産の余剰の徴用による「海賊の経済学」と呼ばれるべきもの−−加えて、華美な軍服の流行−−そして革命的な社会変革としての〈音楽〉の概念−−そして最後には、彼らが分かち合う非永遠性の雰囲気であり、前進や変身、そして他の宇宙系や山頂やゲットー、工場、アジト、放棄された農場への−−あるいは、現実のそのほかの局面への−−移動に対して、準備が整っているという雰囲気である。フィウーメ、パリ、そしてミルブルックでは、新たな「革命の独裁政権」を強要しようと試みた者などいなかった。世界は変わるかも知れないし、そうではないかも知れない。であるならば、移動し続け、〈激しく生きよ〉。

 一九一九年のミュンヘン・ソヴィエト(または「カウンシル・リパブリック=評議会共和国」)は、TAZの要素のいくつかを示していたが、それにも関わらず−−多くの革命と同様に−−その当初の目標は、正確に言えば「一時的」ではなかった。グスタフ・ランダウアーの文化大臣としての参加に加えて、経済大臣としてジルフィオ・ゲゼル、詩人にして劇作家のエーリッヒ・ミューザムやエルンスト・トラー、レト・マルート(小説家B・トラーヴェン)その他の反権威主義者と過激な自由意志論の社会主義者が参画したことは、このソヴィエトにはっきりとアナーキスト的な香りを与えていた。ニーチェ、プルードン、クロポトキン、シュティルナー、マイスター・エックハルト、過激な神秘主義者たち、そしてロマンティックな〈民族派〉哲学者たちをジンテーゼするという多大な作業に何年ものあいだ孤独に従事していたランダウアーには、当初から、このソヴィエトは救いようがないことがわかっていた。彼が望んだのは、ただ、それが〈理解される〉に足るだけ持ちこたえれば、ということだった。このソヴィエトの創始者で、殉教する定めにあったクルト・アイスナーは、詩人と詩こそが革命の基礎を築かねばならないということを、文字どおり信じていた。計画は、バヴァリア地方の大部分をアナーキズム的社会主義経済とその共同体における実験に捧げることから開始された。ランダウアーは、「フリースクール」のシステムと「人民劇場」の提案を起草した。このソヴィエトへの援助は、多かれ少なかれミュンヘン近隣の最も貧しい労働者階級とボヘミアンからのもの、そして、 ワンダーフォーゲル(新ロマン主義的青年運動)、ユダヤ人の過激派(ブーバーのような)、表現主義者、そしてその他のマージナルな人々からのものに限られていた。それゆえ歴史家は、それを「コーヒー店の共和国」として片づけ、戦後のドイツにおける(いくつかの)革命へのマルクス主義者やスパルタクス団員の参加と比較して、その意義を過小評価している。共産主義者の罠にはめられ、実際にオカルト/ファシスト的なツーレ・ソサエティに感化された兵士たちによって殺害されはしたが、ランダウアーは聖人として記憶されるに値する。それにも関わらず、今日のアナーキストたちは、彼を「社会主義者政権」へ「寝返った」と誤解し、非難している。もし、このソヴィエトが一年でも持ちこたえていたら、我々はその美しさに涙していたことだろう−−だが、その春の最初の花が萎れる前に、その〈精神(ガイスト)〉と詩の魂は粉砕され、そして我々は忘れてしまった。想像してみたまえ−−文化大臣が、学校で学ぶ子供たちはすぐにウォルト・ホイットマン[一八一九〜九二、アメリカの詩人、代表作に『草の葉』]の著作を暗記してしまうだろう、と予言したばかりの都市の大気を吸ったならばどんなであったかを。タイムマシンがあったらどんなによいか(嘆息)……

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