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netarts.org 2005

     

    ■ "onewordmovie"
    ■ http://www.onewordmovie.com/
    ■ フィリップ・ツィンメルマン&ビート・ブログル (スイス)

    ■ 選評−マーク・アメリカ

     何の説明も要しない、見るだけでわかってしまう「onewordmovie/ワン・ワード・ムービー」というウェブのための仕組みが、町田市立国際版画美術館で毎年開催される「ネットアーツ・オルグ 2005年展」で大賞を受賞しようとしているとは何と不思議なことだろう。しかし、それは本当につまらない作品なのか、あるいは、それが今の時代にとっての最適な選択なのか? 

     もし、ひとつだけ入力された単語が、非同期的なリアルタイムにおいてウェブが夢見ているものを、点滅するフレーム単位のリミックスという形の千以上のイメージで送り出すことができるとしたら(そして、それがウェブを擬人化しているとしたら)、我々が「net.art」のもう一つの異なった局面に突入してはいない、なんて誰が言えることだろう? その局面とは恐らく、より素朴かつ最小単位にまで解体された局面なのであって、それはインタラクトし易く、根元的にはビデオ・ジョッキー美学の本質を追求するものである一方、すべての優秀なネット・アートが義務として備えねばならない鮮やかさ、親しみやすさをも合わせ持った局面なのである。

     一時的なブームは次々に来ては去ってゆく。hypertext、GifBuilderによるアニメーション、shockwaveもそうだし、flashだってそうだ。データの視覚化、javaスクリプトが操るアート、オルタナティヴなウェブ・ブラウザ、こそこそとしたハクティビストの介入、ハイパー・ライナーノートの付いたmp3のコンセプト・アルバム、eブック、哲学的な気分にさせるオンラインのアート・ゲーム、あるいは同様にネット・ムービーへの進出も、ユーザーを騙して「自分たちは完全なリモート・コントロールの下にある」と信じ込ませようとしているのだ。

     今日では、わたしが自分の時間を費やすに値すると感じるのは、"screenfull.net"のようなブログや、"Flickr"のような画像を流布する実験的なサイトの内のいくつかである。今年ノミネートされた作品の一つである"confluence.org"は、大賞を受賞することはなかったが、一定の地点に基礎を置いたサイバー心理地理学的なマトリックスの一種として審査員全員の興味を惹いた。他の作品では、最終審査までは及ばなかったが、「available on Thursdays」という作品がある。それは私たちユーザに、ウェブからそのアーティストに「木曜日、何時どこで何をしろ」と命ずる機会を与えるというものだ。そのようなアーティストとユーザーとの関係は、非常に素朴かつ「家族的」なものであり、かなりマゾ的でもあるのだが、振り返ってみれば、私たち「ウェブ・ユーザー」はかなりサド的なのである−−−ボタンを押すから幸せにしろ、というネットワーク生活に中毒しているのだから。初期のネット・アーティストたちは、あるいはドット・コム・タイプの人たちも同様に、ウェブという存在に取り憑かれており、絶え間なく注目を浴び続ける唯一の方法は、ベトベトしたアートやビジネス・サイトを作ることだ、ということを知っていた(『そこら中にベタッとくっつかせて、何が起こるか見てやろう』)。今は、ウェブが存在するのは当たり前のこととなっており、最も重要な問題は、あなたがオンラインでそんなベトベトしたサイトを作っているかどうかではなく、あなたの作品を、わたしが何度も何度も再訪したくなるようにさせるためにはどうするか、ということなのである。それは、あなたのサイトをどれだけ長い時間見ているかというよりも、どれだけコンスタントに訪問するか、ということなのだ。もしわたしがボタンを、たった一つのボタンを押すと、それが直接にわたしをあなたとをリンクする、あるいは、この果てしなく広がり続けるリゾーム的な情報スペースにおいて、あなたと見なされるものと、あるいはあなたがどんなに遠くに行こうとあなたがわたしのためにしてくれることと、わたしとをリンクしてくれるなら、わたしはきっと常連客に、あるいは忠実なファンになるに違いない。「さあ来たよ、楽しませておくれ。」

     今年は、多くのとてもクールなネットアートがノミネートされ、わたしは今では、審査の過程で初めて知ったサイトのファンになってしまった。それらはニコラス・クラウスPleixマリナ・ゼブラリーニなどのすばらしい作品である。そして、最終審査に残ったすべての作品は、私たちのヴァーチャルな審査プロセスの結果として彼らが受けるであろう賞賛に値するものだろう。「テンプレート・シネマ」は、トンプソンとクレイグによる数多くのネットアートへの格好のイントロとなることだろう。「gwei/グーグルはそれ自身を食べるだろう」は、コンセプチュアルなネットアートが未だ健在であることを改めて示した。「フラジャイル・サーカス」は、将来このような作品をもっと見たいと思わせるような類の作品であるが、恐らくそれは、ネットを通じて簡単に配給されるインターメディア的なものとなるだろうし、そしてそれは私たちを、あらゆる善き陰謀家たちが求めているように、(大きな意味での)「物語を経験すること」を協同して創り上げよう、と誘うことだろう。

     しかし今年、大賞は「ワンワードムービー」に与えられた。それは、シンプルと言うよりは精密な作品であり、写象主義的なウェブの共同的無意識を利用しているものである。ただ一言、どんな単語でも良いのだ。わたしが最初にそのサイトを訪れた時、そして実際にその作品を賞にノミネートした時(それが実際に受賞するとは思わなかったが)、わたしは直感的に「ウォーホル/Warhol」と打ち込んだ。そして、そこでわたしが見たもの、経験したものに魅了されてしまった。ならばと今度は、と茶目っ気を出して、試しに自分の名前である「amerika」という単語を打ち込んでみた−−−そして、自分のスクリーン上で展開される目障りなちらつきにショックを受けてしまった。自分が打ち込んだのではない他の単語が画面に割り込み、その前の絵の残像とオーバーラップして……まるで、わたしのビデオ・ジョッキーそのままではないか。わたしがこの作品に単語を打ち込むのは、(最初期のブラウザである)「モザイク」や、その後に数多く現れたGUIブラウザの歴史に思いをはせるためである。実のところわたしは、この作品の「ユーザー」なのだ。(インターフェースの価値を重視する)視覚的な「ユーザー」なのである。わたしは今、自分の最初の長編映画を編集しているのだが、それを始めて以来心から離れない言葉があったので、今日はそれを打ち込んでみた。それは、『salma』という単語だった。